法事にて /「義兄」のこと義兄の13回忌のため、朝から出かけた。義兄は、50代前半に消化器系の難病にかかり、 入退院を繰り返して、最後の一年半は点滴で命をつないで力尽きて逝った。 その闘病生活は、見ていても本当に辛かった。 何が可哀想だと言って、口から食事ができないことが一番に気の毒だった。 入院し点滴で栄養補給をされていたのだけれど、 食事時には当然食べ物の匂いが流れてくるし、 隣のベッドでは食事をとる姿も見える。 「あー、ラーメンの汁でもいいから飲みたいナー」と、 冗談めかして言った言葉が忘れられない。 本人はまだ若かったから、 辛抱して必ず元気になって見せると強い意志で闘病していたのだが、 とうとう憧れのラーメンのつゆすら口に含むことも出来ずに、 苦痛の中で死んでいった。 その時のことを思い出すと、今でもこみ上げてくるものがある。 当時、私の息子達は高校生だった。 幼い頃からこの叔父さんにとても可愛がられていた息子達は、 いつも私達と一緒にお見舞いに行った。 「元気になったら、パットゴルフ(子どもも楽しめるゴルフに似たゲーム。最近は見かけない)に行こうな」と、 ベッドの上でいつも約束していた。 次男が修学旅行で、京都から「般若心教」の巻物入りの、 お守りのようなお土産を買ってきたのだが、 苦しくなるといつもそれをブツブツと読んでいたそうだ。 元気な頃には、普通の日本人的な宗教心だけの人で、 特定の宗教に帰依している人ではなかったのだが、 辛くなった時には、そのようなものにもすがりたくなったのであろう。 「これ唱えていると、何だか元気になるような気がするんだ」と、 弱弱しい笑顔を見せてくれたのは最後のころだったかと思う。 手術をしても体力が落ちていたので傷口がふさがらず、 最後の一ヶ月は点滴や膿排出の管、排尿の管エトセトラ・・。 身体に何本ものチューブが絡みついた状態で、 お見舞いに行ってその姿を見るのも辛かった。 家族は、これ以上治療しても回復は無理だとはわかっていても、 そのチューブのたった一つでもはずすことが、即「死」につながると思えば、 どうしても「楽にしてあげて」とは言えなかった。 お葬式の時、私の息子達はポロポロ涙を流しながら義兄のお棺を担いだ。 とても厳しい父親だったので、元気な頃には義兄を嫌っていた姪たちは、 「お父さん、行かないでー!」と泣き叫んだ。 いくら厳しくても本当はとっても子煩悩な人だった義兄は、 どれほど無念な思いで逝ったことだろう。 その当時はまだ二十代だった甥(長男)も、 今では40代のおじさんになって、法事を取り仕切っていた。 私にしてみれば、つい昨日のことのように思うその日が、 もう13年も前のことになったことに、正直驚いている。 葬儀の日、学生服姿で涙を流しながらお棺をかついだ息子も、 もう二人の子の親になっているのだ。 まだまだ生きたかった人の分だけ、 命を与えられているものは大切に日々を暮らしたいものだ。 「法事」は、 あの世から生きているものへのメッセージを受け取るための時間なのかもしれない。 (2004年04月26日 ) |